私が絵を描き始めた最初の頃から大事にしてきたことが二つある。
一つは絵のテーマをはっきりと持つことで、もう一つは私らしいスタイルの構築だった。具体的に言えば、テーマは無限の広がりのある風景だ。そしてそこには動きがあり、波の音や木の葉のささやきが聞こえる絵を描きたい、ということだった。それには普通の形でなく長い画用紙に描こう、それを私の絵の型にしようと決めていた。
そのような絵を愛するようになった根底には唐の詩人の陶淵明や日本の西行や芭蕉の生きかたの影響もあるかもしれない。群れず属せず、孤立もせず、出会い(人との出会い、風景との出会い、本との出会い等)を大切にし、宮沢賢治のように「人にでくの俸と言われても、苦もせず、嫌がられもせず」、それなりの存在感を自らが持てる生き方を続けていきたい、と思っている。
上左は我家二階の廊下、その下はバードカービングの展示会出品。他は我家のガレージだ。車は無く、卓球台と電動自転車を置いてある。木彫の白熊などの動物も作っているし、陶芸で壺や傘立てをつくり、その上に風景も描いている。
私は本も趣味なので、高槻と小豆島で一万冊ほど持っているが、小豆島には年に一度、夏休みに息子と娘が子供を連れて集まることにしていたので、そこには自然科学書(シートンやファーブル全集、ジェラルド・ダレルやドクター・ヘリオット、畑・ムツゴロウ)、児童書、漫画が四千冊ほど、高槻には宗教関係や美術書、司馬遼太郎の時代小説などが5千冊ほど置いてある。私はまず図書館で本を借りて読み、もう一度ぜひ読みたいと思えばブックオフやアマゾンなどで中古を購入してきた。木彫用の材木は近くの材木会社でハギレをもらって作っている。
美術書は京都造形芸大の通信教育を70歳になる前に二年間受けていた関係で、高槻市の図書館(5ケ所)の廃棄図書・寄贈図書無料配布会には何年も行って集めている。平山郁夫さんや東山魁夷さんのものをはじめ、ほとんどの画家の画集を持っている。そうした中で平山さんと東山さんの生き方が参考になった。
平山さんによると、画家にとって一番大切なことは自分のテーマを持つことと自分にしかない絵の型(線といってもよい)を身につけることだそうだ。
平山さんの最初の29歳・院展入選作品「仏教伝来」をみればこれ以降シルクロードをテーマにし、毎年のようにその道をたどる旅をされた理由が分かる。
しかし本当は、この絵の前に平山さんは戦後失火で焼失した法隆寺の金堂壁画の修復に数年間専念し、法隆寺壁画の原点はシルクロードだということを体で学んでいた。これが平山画伯の原体験の一つだろう。もちろん若い頃に広島で被爆したことも白血病を伴う原体験だ。これも広島を見下ろす閻魔大王として絵にしている。 そうして、描かれた三蔵法師と乗っている白馬を見れば、平山さんが「自分の線」とされている独自の線がボゥーと描かれているのがわかる。このようにパッと見ただけで、これは誰の絵だと分かることが一番大事だと言われているのだ。
型ということを平山さんはスポーツで言えば王さんの一本足であり千代の富士が前みつを取ることだ、とも言われている。
型といえば「型にはまる」という言葉もあり、融通が利かないことのように思われるが、自分の型が決まれば、余分な力が抜け、逆に柔らかい身のこなしになるのだ。それには他人には真似のできない研鑽努力が必要だということだろう。
そこで私は、あまり裁断されていない大きい画用紙を大量に購入し、それを横に裁断し。二枚の細長い形にした。それを額縁に入れると半間の大きさに収まり、客間や食堂なら横に二つ、居間なら鴨居の上、半間のトイレなら正面におさまる。今現在私の生活しているところには廊下やトイレに飾れるだけ飾って季節ごとにそれを入れ替えている。
テーマとスタイルが決まってくれば、今の時期にはどこに行くべきかも決めやすい。平原のある北海道、海のある小豆島、湖のある滋賀県、そのうえで、東京で講演会の司会の仕事が終わればバスで東北や中部地方、時には飛行機で羽田から北海道に行ったり九州に行ったりして旅をしていた。
そして写真は横長の絵のために常に三枚(右・左・中)一組で撮影し、それを張り合わせて保存。保存するだけでなくパソコンを使ってムービーメーカーでムービーにしてテロップと音楽を入れるということをしてきた。デジカメで写真にとれば撮った日時が記録される。目的をもってことを行い、撮りっ放しや、やりっ放なしでなく、整理しておくと一人の人間がやっていることなので必ず相乗効果が生まれてくると私は思っている。