太平洋プレートによって押し上げられて浮かび出た日本列島には6852の島があり、瀬戸内海だけで727あるらしい。都道府県で唯一島を持たぬのが大阪府だそうだ。そのためか離島というものに憧れがある。淡路島は橋があるので島ではない。佐渡島が離島では最大で小豆島はその次くらいである。小豆島あたりが住むのには一番便利で名所も多い手ごろな島と言えるだろう。(自我自賛)
小豆島に行ったついでに青春切符を使い島めぐりをしつつ高槻まで帰ることにした。
四国、山陰、そして隠岐の島の旅に出る。ー8月6日
小豆島の離島、豊島
小豆島には小さな離島はたくさんある。その中で最大の島が豊島(豊島)だ。私の家のある土庄町に含まれており、フェリーの便も良く、オリーブがたくさん植えられたきれいな島と思っていた、それが、外部から持ち込まれた産業廃棄物をひそかに埋め立てていたことが発覚。県と町が責任のなすりあいをしつつ汚染除去の努力続けている。おかげで島の過疎化が一気に進んでしまった。建築家の安藤忠雄さんなどが呼び掛けて島全体にオリーブを植えようという運動も起こった。
その影響だろうか建築美術館という地面に半分埋もれた独特のフォルムの建築美術館が島に生まれ、今では外国からも建築家志望の人たちが見学に大勢来ている。島の人たちも自分たちの島を守ろうという気概が出てきていると思う。
とにかく素晴らしい棚田があり、あちこちで牛が自然に溶け込みながら農作業を手伝っている風景も見られる。住民も牛を家族同様に大切にしており、牛にオリーブの実を食べさせて、オリーブ牛というブランドもこの島で生まれたようだ。古い神社やお寺もあり島全体が台山(だいやま)という名で呼ばれている。
上が平らでまさに台形の見本だ。戦時中だろうか、頂上に飛行場を作る計画もあったらしい。広い頂上からは四国側と岡山側が見える。それだけでなく、周囲に大きな島も点々とあるが、それらを全て見下ろすことが出来る高さがある。
ところが最近私が行った時は頂上の展望台周辺に巨大な携帯電話用のアンテナが張り巡らされ、その近くには太陽光発電パネルの設置反対の看板が掲げられていた。私も反対だ。なぜこれほど人々の営みが自然と調和した風景を壊すのか。自然の風景は、一度失われれば復元はできないのに。
集落は海岸線には無くて、中腹にある。瀬戸内海芸術祭の一つの目玉である西沢立衛による豊島美術館も唐戸の中腹に常設されている。港から徒歩10分のところには松原があり、プライベートビーチのような見事な白浜である。海水浴には最適だ。
海岸線を歩いていて喉が渇き、ちらっと姿が見えたオバサンに“水を一杯いただけませんか”と言うと井戸水の冷やしたのをペットボトルでくれた。この家は塩飽諸島の海賊(悪い意味の海賊でなく通行札を売って案内をし、戦になれば、利益のあるほうに付く)の子孫らしい。ご自宅の玄関には信長・秀吉・家康からもらった刀などがかざってあった。幕末に咸臨丸という船で日本人の手だけで太平洋を渡った時の水主(かこ)のうち35人が塩飽諸島出身者だった。
男木島
土庄港を出て豊島を過ぎて、すぐに見えてくるのが男木島だ。この写真は隣の女木島から撮ったものである。この二つの島は全く違う。女木島には洞窟があり、それを鬼が住んでいたという演出で人を呼ぼうとしている。それに対して男木島は瀬戸内海芸術祭に熱心に協力し、若手の芸術家が猫車(かわいい手押し車)の復活に協力して木製の猫車に絵を描いたり、移動図書館活動もしている。古い石垣の狭い階段も大切にしている。老人を大切にしている島だと感じられる。
春は桜並木となる海岸線を15分ほど歩くと、きれいな燈台が遠浅の砂浜の中に見える。ここの灯台はできて125年⦅無塗装庵治岩づくりで日本灯台50選⦆佐田啓二主演映画「喜びも悲しみも幾年月」(昭和32年)の舞台になって有名になった。目の前を高松港に向かう大きな貨物船がどんどん通る。私も全国の灯台を見ているが、こんな景色はめったに見れるものではない。灯台を大切にしていることも良く分かる。つわぶきの花も灯台の周辺に群生している。
港からは細い石階段が積み上げられ、その上に家があるという感じだ。女性は猫車と言われる小さな台車で物を運んでいる。元は牧場が在った、と言われる方は行き止まりだった。景色は良い。
そこから引き返して燈台に向かうのでは簡単に港に帰ってしまい船の時間には早すぎる。上に登って行くと「ジイの穴」「タンク岩」と看板があるので、すぐ近いと思って登りだしたが、行けども行けどもまだ上だ、という表示が有る。荷物は上り始めたところに置いてあり、そこまで戻るのは大変だ。戻りたくないし、灯台が下にあるとは思えない。ジイの穴はまあ6畳ぐらいの洞窟だ。たいしたものではない。しかしタンク岩はまだ上らしい。ここまで来て見ずには帰れない。荷物を取りに戻ってもう一度挑戦する。ガレ場があって上を見たら柱状石の 柱である。崩れる岩場を登った。下手をすると灯台に行き着かないと思ったが、地図看板があって現地点は灯台のすぐそばでジイの穴の入り口もすぐ近いようだ。そこで灯台に向かって上ったり下ったりしながら降りていく。そのあたりか
らの景色は大型船が通って面白い。 灯台の周りは花がきれいに植えてある。
港に戻ると、港の正面に酒場のような氷屋のような看板の店が有る。入ると『いらっしゃい』と中年男性が六人ほど酒を飲んでクダを巻いていた。私は氷金時を注文して、「ここは一体なんですか、パブですか」と言うと喜んでいた。そして“どこまで行った、タンク岩まで行ったのか偉い”、と言って冷たい麦茶をついでくれた。
私からすると豊島と男木島は小豆島の一部だ。小豆島に来たらぜひ行くことをお勧めるする。ただし、男木島には高松港からしか船は出ていない。
高槻へは遠回りだが、高松→瀬戸内海岸→松山→フェリーで九州門司へ
青春切符を有効に使うため、JRで四国を縦断し、松山からフェリーにのる。夜のフェリーで九州門司まで行き、維新直前に長州の高杉晋作が世界の軍艦を相手に暴れまわった海岸線をまわる。山陰線で西長門や萩や隠岐の島を経由して帰ることにした。
一日目は粟島でドラえもんに会う
香川県の離島でもう一つ異色の島・粟島に急遽行くことになった。ここには明治30年に日本最古の海員学校が作られ、今も保存されている。そのことは現地に行くまで知らなかった。ここに行くには高松からJRで瀬戸大橋の終点を越えJRの詫間駅からバスで須田という所に行き、小さなフェリー使わないと行けない。
行くことになったのには一つの出会いがあった。JRの電車の中で小学校に行っている男の子二人を連れた若いお父さんと話をした結果だ。
その人は粟島の出身で奥さんは島根県の出身らしい。もう一人小学校二年の子供がいて全部男の子らしい。島で漁師をしている両親に夏休みは引取ってもらおうと思っていたらしい。しかし父親は一人しか見れない、と言うので先に上の子を島に送って預けているようだ。
若いお父さんは瀬戸大橋を渡ったところで結婚式場のコックをしているらしい。
家庭の事情は分かったが、良い島のように思えてきた。私も行ってみたくなり一緒について行くことにしたのだ。下の写真が日本最初の海員学校。昔の少年にとってはあこがれの学校だっただろう。こんな施設を村立で建て、のちに国立の海員学校に変わったという。偉い人が島にいたのだろう。
粟島に着いて、まず食料を売っている店に案内してくれた。その店は同級生の母親がやっているらしい。何も無いがバナナがあった。そして自分の家の冷蔵庫から自家製のトマトを二つくれた。その青年から、家の近くに船の浮(ウキ)を使って「ブギウキ」という名の面白い展示をしている人がいる、と教わった。入口はどこかわからないが大声で声を掛けさせてもらったが、お留守のようだ。庭には花が一杯咲いて、ドラえもん、正太郎、トラさん、天とう虫等、実に素晴らしい作品だ。ウキの廃棄品?、しかも同じ形のもの組み合わせで、これほどの作品がうまれるものか。驚きだ。
後で郵便局に行きくと絵葉書にして売られていた。見捨てられてはいないのだ。それにしても知られていないのが残念だ。
暑い中をブラブラ歩いていると、先ほどの青年が息子二人を乗せて車で追いかけてきた。そしていろんなポイントを案内してくれた。
二人の息子は“私のお父さんは世界一”と海で叫んでいた。その姿を見てジーンときた。皆一生懸命生きているのだ。
その青年に私の「人生は全てが出会いだ。」という私の持論を紹介し、私の撮った写真を五枚ほどあげた。私の生き方にも共感してくれたようだ。私はヒッチハイクで車に乗せてもらうと、出会いの大切さを話し。「自分の原風景を求めて写真を撮り、それを絵にして紀行文を残すのだ」といつも話をする。そうすると“良いことだ”と言ってくれる人が多い。
海岸線で夕日を探す
粟島からJRに戻り、松山に向かう。乗ってからわかったが、JRは徹底して海岸線から遠い所を走っていたのだ。私は今治・福山の「海の中道」を自転車で二回走っているので海岸線の近くを何度か通ると思っていたのだ。もし時間があれば今治で降りて海の中道の来島海峡大橋だけでも撮りたいと思ったが、駅から今治港は相当離れている。何が何でも青春切符を使って松山行きに乗るつもりだったので車掌と相談をしたら夕日の沈む六時半頃に通っている場所は北条という町で、その一つ手前に大浦というところがあり二見が浦に良く似た景色だ、と教えてくれた。
そこで大浦で降りて夕日と競争で海岸を走る。一山越えると砂浜があり、そこで赤ちゃんを抱いていた外国人と出会う。小さな娘さんと犬と夕日、の散歩も撮らせてもらう。そして北条まで歩こうとしたが電車で四分でも距離がある。一時間で着きそうも無い。ヒッチハイクでトラックに載せて北条まで運んでもらう。
松山観光港という松山の一つ手前の駅で降りて、歩いて港に行き電車に乗り、さらにバスに乗り継がないと行けない。青春切符を有効に使うために、JRで四国を縦断し、松山からフェリーにのる。しかし船の出るのは10時半なので時間はあった。船は翌朝五時前に九州小倉港につくので私は船が動く前に船の風呂に入る。汗だくなので助かった。夜のフェリーで九州門司まで行き、維新直前に長州の高杉晋作が世界の軍艦を相手に暴れまわった海岸線(長門)をまわるつもりだ。
小倉でフェリーを降りたがJRとの接続は30分待ち。その間に吉野家を探して納豆定食を食べる。電車は下関までしか行かない。そこで山陰線に乗るには40分時間待ちなので、タクシーにとび乗って関門海峡大橋の見えるフグで有名な唐戸市場の近くまで行ってもらう。この近くで私の塾生が町の機関誌を作っているので、以前、唐戸市場を取材し市場の上から絵を描いている。
逆光だが面白い波が撮れた。駅に戻ろうとしてもタクシーが走っていない。朝早すぎるのだ。バス停もどこか分からない。走って探すがバスの時間もわからない。しばらく走り回っているとバスが来た。手を上げて待ってもらい下関駅まで戻ることができた。人生はゲームだ。いつもうまく行っている。
下関から長門行きに乗る。他の電車も全部長門が終点だ。終点まで乗って仙崎までいくつもりだったが海岸線はなかな美しい。さきにいくことよりどこかこの辺で景色の良いとこはないか車掌に聞いた。このごろはワンマン電車が多く、運転手一人なので話しかけにくい。駅に付いても運転手自身が切符を回収するために後部まで走っている。パンフレットは観光協会がまだ開いていないので何もない。滝部で車掌が降りるらしいが、ここの駅にはパンフがあるという。駅でパンフを取っているとバスが来ていた。どこ行きのバスかと聞くと、角島(つのしま)行きだという。角島は橋が最近出来て映画のロケの場所にもなったそうだ。それはおもしろい。そのバスに乗る。運転手に西長門リゾートホテルはどこかと聞くと、橋の手前で通るという。とにかく橋を渡って灯台まで行ってもらい、帰りに西長門リゾートにも行くことにする。エメラルドグリーンの海だ。
年配の夫婦が写真を撮っていた。車に乗せてもらおうと思いホテルにはこれからですかと聞くと、“しばらここにいる”と言う。“もし帰り道で私を見かけたら拾って欲しい”と頼む。
そのうえで、こっちは急いで海水浴場のあたりの浜の写真を撮りに走る。
撮っていると、車が来てくれた。“急がないから”と言ってくれて、ポイントとなる場所で降ろしてくれる。橋も撮りたいと言うと、2キロの橋の真中より向うが良いポイントだ、ということで、一番真中で高くなっているところで降ろしてくれて、そこからは歩く。こんなきれいは海は沖縄でも見たことが無い。真中に鳩島がある。海土ケ瀬戸というところだ。橋を渡ってヒッチハイクをしようとするが広い産業道路でスピードを上げて走っており、停まってくれない。バスが来たので“バス停はどこか”と“バスの時間は”と聞き、西長門リソートホテルできれいな景色を撮影する。バスに乗ると、往きに乗った時の運転手で、“歩いたんですか”と驚いていた。島も入口から灯台からまで四キロ以上あり、橋も二キロだ。こんなに暑い中を荷物をたくさん持って歩けるものではない。半分はヒッチハイクで乗せてもらた。
西長門の角島(つのしま)
日本には小さな島は無数にあるが、一つ一つに橋が架かり離島とは言えなくなった島は多い。淡路島も高速道路が出来ればどうなるかは予想がついた。私は淡路青年会議所に呼ばれたときに通過型の文化は若者にこの町を故郷として心を留める力を持たないだろうと言わせてもらった。その点小豆島は橋を架けるような浅い場所がないのを私は喜んでいる。
橋の手前左の西長門リゾートにかかったこの長い橋は私が若い頃社員旅行でホテルに泊まった時は無かった。
それから何年かして平山画伯がこの写真の橋の左にある島をアップにして絵に描かれて、これはどこだろうと思ったことがある。しかしこの橋は素人の私が言っているだけかもしれないが、絵になる橋だ。橋を渡った右の島陰に海水浴場があり、それがこちらから見ても少しも邪魔になっていないし、理想的な海水浴場だ。自然を壊さずに活用できていると思う。角島(つのしま)灯台は明治9年に初点灯した総御影石造りの洋式灯台で、140年以上経った現在でも現役で点灯しており、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台の一つだ。