長崎、五島列島、熊本の旅3月12日から16日
フォーラムの後、羽田空港から長崎に行く。東京からだと長崎も大阪も料金はあまり変わらない。時間的には家に帰るよりも早く長崎につく。飛行機の便利さを痛感した。
一日目、長崎のユースホステルの2500円は安かったが値段相応だった。お風呂もシャワーだけでドミトリー風だ。相部屋は外人二人でカナダ人だ。朝早く起きたが雨だった。まだ暗い中を歩き出す。長崎駅に近いユースなので市電で浦上教会に行く。かなり激しく雨が降っている。電車を降りてコンビニで傘を500円で買って平和公園に上がり北村声望の平和像を見る。ここから浦上教会が良く見える。教会よりも永井博士の知己堂を道行く人に聞く。そうすると相手の顔つきが瞬間に変わり嬉しそうな良い顔になるのが分かる。この町の人の誇りなのだろう。永井博士記念館(如己堂)は四畳半程の小さな建物だが、外から24時間写真が取れるようになっている。“いつでも喜んでお会いします”という気持が伝わり気持が良い。光線の具合も考えて天国に居られる永井博士がそのままに姿を見せてくれた感じで感激だ。
永井博士は自らが被爆をしながら、医師として診療に携わる。その記憶を本に残そうとしたが進駐軍が反対。全てを無くし、妻も亡くし、妻が胸に下げていたロザリオのみが灰の中から見つかっている。その悲しみと憤りを死の床で書き上げ、幼い二人の子供に残した。それを元に作曲されたのが人生の応援歌・小関裕而の「ああ長崎の鐘!」だ。左の写真丸い山の下に教会。
浦上教会自身も数奇な運命をたどっている。キリスト教最後の検挙事件「浦上四番崩れ」で全国に散った信者が禁教令の廃止後に浦上に戻り30年かけてもう一度この教会を建て,それが20年後の原爆で全壊。それが昭和34年に再建された。原爆投下の瓦礫の中からマリア像がみつかる。教会の裏には焼け残った鐘楼の一部が遺跡として置かれている。
ここからどこに行こうかと思い、教会の後はどこに行けばよいかと通りがかりの人に聞くと長崎医科大学が当時の姿を保存していると教えてくれたので行ってみる。最後の写真が鐘楼の残骸と原爆直撃地である医科大学のゲストハウスの写真。
守衛さんに聞くと喜んで出て来て焼け残ったゲストハウスに案内をしてくれた。そこの掲示板によるとこのゲストハウスは少し窪んだ所にあったためか、この辺りで唯一原形をとどめて残ったらしい。当時の写真が掲げられているが、大學講堂には400人の学生がいて瞬時に白骨化したと書かれている。こういう原爆の恐ろしさはやはり実際に来てみて遺跡を見ないと分からない。五島への船の関係で船越保武さんの二十六聖人像をゆっくり見れなかったのは残念だった。市電で長崎駅まで戻り歩いて港に行きフェリーで五島の福江港に向かう。下は長崎港と軍艦島。
フェリーは三時間半かかり、福江港にはお昼に着いた。船の中で船員に、“どこに行けば良いか”と聞いたが誰も島の観光などしたことがないようだ。
パンフレットで福江島には教会がたくさんあるのは分かっていたが、やはり大瀬崎の断崖灯台を見ないことには話しにならないらしい。ところがバスは一日に数便しか岬の近くまで行っていないらしい。今日の便は終っており観光バスは二人以上客がいないと動かない。レンタカーは半日六千円なのでバスより安いらしい。私も車の免許は退職直前にとっているが、小豆島でしか乗ったことがない。ナビがあっても使い勝手も知らない。
幸い午前中に観光バスで島を回っていた長野の茅野のご夫婦が午後も回る、と言うので一緒に回ることにする。その前に観光案内所で朝の散歩が出来る民宿を予約してもらった。
観光バスは三人の客に会わせて回るコースを考えてくれた。最初に畑の中にある世界最小の教会だ。これは冗談でなく、ここに教会があったらしい。次に明治28年に五島で最初に作られた煉瓦造りの教会に行った。ここのルルド(泉)は日本最初のものである。フランスのルルド発祥の教会には毎年この教会からも人が行くそうだ。教会は祈りの場所だからと言って中の撮影は断られた。しかし外からガラス越しなら良い、とは言われた。島の最先端にある大瀬崎灯台はきれいに切られた崖の上にある。人間の手で削られた絶壁らしい。本州最西端の灯台である。
私は玉の浦海岸や五島特産の椿の写真を撮りたいので観光バスからは降ろしてもらった。ここからはヒッチハイクなので、やってきたトラックを止めてノアの箱舟の形をした教会があると聞いているが、そこまで運んでほしいと頼み、そこからまた軽トラに乗り換えて町まで運んでもらった。ところがそのノアの箱舟教会は今晩の民宿のすぐ近くだったことが後で分かった。
それでも町から民宿に行くバスには時間が早すぎるので観光バスが通る予定の五島城と武家屋敷で降ろしてもらう。この城跡が現在は高校の建物になっていたので、そこの先生と歴史の話をした。この五島は日本の南の海道で遣唐使の船も最後に水を補給する場所であったらしい。また流罪の落人の島でもあるようだ。下は玉の浦。砂ではなくすべてが貝の粉末。
まだバスまで時間があるので堂崎天主堂にも行くことにする。そのためのバスには五分後に乗ることが出来たが、降りてから教会までは20分かかると言われる。しかもバスがもう一度帰りに通るのは40分後だと言われる。とにかく教会は辺鄙な場所にあり、住民用のバスの運行経路とは関係が無い。
堂崎天主堂は水仙が咲いていてきれいな教会だ。近くのオバサンと話をしたが、その人は「来た人は“よいところだ”と皆言うが“住みたい”と言う人は一人もいない、と言っていた。結局私はバスに乗らず、トラックを止めてノアの箱舟の形をした協会まで運んでもらい、そこから探し始めたが、真っ暗で聞けるような家も無いため困ってしまった。
海に近い家に灯かりがついているのでベルを押して教えてもらう。
民宿のご主人はこの村の出で、父親が亡くなり定置網の権利を引き継ぐために東京から戻ってきた人だ。奥さんも東京の人で,この島に来て、ご主人に合わすためクリスチャンになったと言うことだ。
座敷に立派な祭壇があり、キリストやマリアやヨハネが飾られていた。風呂に入り本日の漁で捕れた魚の料理を死ぬほど食べさせてもらってから明日の朝散歩をするためのポイントを懐中電灯を持って車で案内をしてくれた。親切な夫婦だ。
バスは朝6時50分でこれに乗らないと上五島の奈良尾島に行くフェリーに乗れない。 奈良尾港から50分程バスに乗って有川に行き,そこから五頭汽船の高速艇が出ている。それで佐世保に入り佐世保から平戸にバスで行き,平戸で明日は泊まる予定だ。その前にご夫婦の属している教会からの景色が良いことを教わっていたので朝から家の近くを散歩した。奥さんお勧めの場所は教会の上の墓地からの景色だった。ローマ法王に謁見し改宗した青年が帰りたくても、鎖国令が出ていて、キリシタンの弾圧が起こっていた。その望郷の思いでマニラから海を眺めている姿だと思う。
教会は良い写真が取れた。教会の下の道に降りるとトラックが来たのでヒッチハイクで乗せてもらう。
その人は漁師で、これから漁に行くそうだ。家の前が海だがそこから漁場は遠いので深江の港まで30分かけて行って、そこに停めている自分の船に乗るそうだ。そうしないとガソリンが高いのだそうだ。船は車と比べて数倍のガソリンを食うらしい。おかげで私は港に早く着き昨日お世話になった観光教会の女性にも会うことが出来た。私としてはここから長崎に帰るつもりだったが、そんな船はここから出ていないらしい。
観光教会の女性が中通島(上五島)の有川という町から五島汽船が長崎の佐世保に高速艇を出していると調べてくれた。しかし予約が必要だと言って予約もしてくれた。これで行先は決まった。とりあえず中通島に渡り、その島を縦断する必要があるらしい。船で渡ってからバスに乗るまでに30分あったので、走って行って天然記念物のアコウの木と猫さんの家族を撮った。
それにしても有川まで乗りっぱなしは面白くない。途中で中の浦教会というのがあったので急遽降ろしてもらい裏山の上から教会と中の浦を撮る。赤い椿は血の色を意味するそうだ。信者の皆さんが大変親切だった。
そしてまた有川方面にヒッチハイクをするために車を停めると、看護師をしている女性であった。彼女には大学生の娘がいて、かなりの歳だし昨日は夜勤で寝ていないという。
眠い眠いと言っていた。たまたま青方にパンを買いに行く途中だ、というので、そこまででも良いからと言って乗せてもらう。青方には大曽教会がある、というので、頼んで連れて行ってもらい写真を撮る。教会も良かったが大変不便な場所だ。
そこで下ろされても困る。青方のマリンピアの展望台の景色も良いというので、そこもお願いした。しかし遠くの山の頂上だ。大曽教会もマリンピアも車で近くまで行けるがそこからがかなりの距離だ。車の中で寝ていてもらって駆け上った。マリンピアは100段ほどの階段を駆け上り死にそうになった。景色は良かったが高速艇の時間まで、あまり時間が無いので結局有川港まで送ってもらう。駆け足だったが、中通島の奈良尾というところは教会も多く景色も深江より良いことが分かった。もう一度行きたいところだ。
佐世保から平戸は高速バスで一時間半かかる。平戸は隠れキリシタンの島で景色も良いが遊覧船も観光バスも客がこないので動いていない。「いつ動くのか分からない。かなしい」と観光案内所のおばさんは言っていた。船から平戸城は撮ったし、お節句を飾っている民家にあげてもらてお雛さんの写真も撮った。サビエル教会も遠くからだが見た。午前中に車に乗せてくれた女性が平戸の生月島が良い所だと言っていたのでそこにはぜひ行きたい。
そこに灯台があるらしいが灯台まで行くバスはもう無い。近いところまでバスで行き、後はヒッチハイクだと決めて出発した。車も走っていないし、たまたま来ても若いアベックの観光客では止まってくれない。
2時間ほど歩いて塩俵の断崖までは行けたが大バエ灯台はまだ遠いらしい。ヒッチハイクで軽トラのオジサンに乗せてもらい灯台まで往復と灯台からの景色の案内をしてもらった。この日も天気が良かったので五島の女島、そして壱岐や対馬が見えた。年に一度朝鮮半島がみえるらしい。それにしてもたくさんの島がある。中国から来ると大きな島が五つ並んでいるように見えるので五島列島という名になったが五島だけでも150程の島があり,壱岐・対馬もある。それは中国大陸の大陸棚で浅いためらしい。中国が油田の掘削で自分たちの領土だと言うのも理由があるようだ。
バスで港に帰って平戸ユースに電話をした。着いた時に電話で宿泊を頼んであったが、これから大バエ燈台に行くと言った「バスセンターに帰ってから電話をすれは迎えに行く」といっていた。ところが電話をしたら,バスセンターは有料の平戸大橋を渡った田平(たびら)の港のバスセンターのことだった。最近平戸に合併したので平戸市ではあるが田平は本来、平戸ではない。平戸からタクシーで何千円もすると言われ、ばかばかしいからビジネスに泊まろうかと思って平戸ビジネスに行くと最低6500円と言われてやめる。
外に出たらバスが通りかかったので止めたら,田平を通るというので助かった。
ユースの人に田平港まで迎えに来てもらってユースに行く。もう真っ暗だ。行ってみると ユースなのにシティホテル並みの施設で温泉と露天風呂まである。実に快適だ。相部屋は東京の大学生の二人連れで、四年生と一年生スキー倶楽部の先輩後輩だった。こちらはくたびれているし明日は1番に出て大分の湯布院に行き大分空港から帰るつもりだ。
早く寝て松浦鉄道の平戸口まで歩き5時50分の始発に乗る予定なので早く寝る。五時に起きてすぐに歩き出したが山の中で、来る時も夜8時頃だったので何も見えなかったため道が分からないし、聞く人もいない。とんでもない方向に歩いてしまい。山の中で軽トラを止めて駅まで運んでもらう。乗った途端に電車は動いた。
佐世保に出て青春切符で大分に行くため鳥栖に向かう。
途中で吉野ヶ里古墳公園が見えたので途中下車をして一時間後に駅に戻る。そんな人もいないだろう。しかしとるべき写真は撮った。10年程でこれほど立派に遺跡を再現したとは驚いた。
鳥栖に着いて電話でJALに予約をしようとしら大分にはJALは飛んでいないといわれる。昨年までの時刻表を見ていたのがまずかった。
息子にもらった株主優待券を使いたいので、どこに行けばよいかと聞いたら熊本空港だと言われ、急遽行き先を熊本にする。
熊本発の三角線は一時間後なので熊本城に行く。梅が満開でたくさん写生していた。そしたらもう電車がまにあわなくなった。
JALは三角に行くことを考えて7時20分の最終便にしていたが、それなら5時半のに換えたい。しかし満席らしい。それでもキャンセルが出るかもしれないので飛行場には早く行くことにして,それまでどこに行けばよいかバスセンターで聞くと細川ガラシアのお墓が森林公園にあるというので出かける。
今回は隠れキリシタンと教会の旅だったので細川ガラシアで締めくくるのは良いことだ。高槻はキリシタン大名の高山右近の城のあった町である。うちのお墓のある高槻の隣の長岡天神はガラシアの町ということを売り物にしている。
ついでに言うと、小豆島は高山右近が隠れた島であり、島原の乱の時には小豆島のクリスチャンが大勢応援に行っている。結局JALのキャンセル待ちはダメで当初の7時20分になった。しかし空港周辺の散歩で阿蘇も眺めたし金はかかったがたくさんの人に助けられた。天気も良く、良い旅だった。