私の現役時代における「松下さんとの出会い」のエピソードは最大の財産なので最初に紹介させてもらったが、私の作った勉強会を松下電器に売るべきかどうかを松下さんに相談した際、私の横に経理責任者のTさんがいた。この人はその後、私の考える事業のためなら何億でも調達してくる、と言ってくれていた。
この人は私よりも少し年上で松下電器からの出向者だったが絵が上手だった、題材としてカボチャばかり描いていて、カボチャは天下一品と社内では言われており画家の年鑑にも号何万円と載るようになっていた。
その人が会社を辞める前に私に「自分の息子はひどいアレルギーで普通の職場では働けない。どこか良いところを知らないか」、と聞いてきた。そこで私は長野県の三水村というリンゴで有名な村がある。そこに斑尾高原農場という会社があり、リンゴなどのジャムだけでなく、ワイナリーもやっている。そこの創業者でもある若手社長は私のやっている「PHP経営塾」の生徒さんだ。そこで良いなら紹介する、という話をした。その後、Tさんはその会社で経理の仕事を手伝い、息子さんはワイナリーで働くようになったと聞いている。後日談だが、私はそれから数年後、会社を辞めてしばらくたった時、その会社(斑尾高原農場)の依頼で勉強会を二三回やりに行った上で、事務所に飾るための絵を四枚程依頼されて描いている。
これが依頼されて画いた斑尾高原農場の四枚の絵だ。こういう横長の絵が私の絵のスタイルだ。このスタイルになった理由は先程「絵のテーマとスタイル」という所で紹介している。
この四枚の絵を描く四年ほど前、会社を辞めて独立して絵を描き始めて間もない頃だったが、長野の三水村に住んでいたこの先輩に会いに行き、絵の批評をしてもらおうと何枚かの絵を持っ行っている。
この四枚の絵を描く四年ほど前、会社を辞めて独立し絵を描き始めて間もない頃だったが、長野の三水村に住んでいたこの先輩に会いに行き、絵の批評をしてもらおうと何枚かの絵を持っ行っている。
私が最近の絵を見せて、なぜこの絵を描いたか、そこで何が起こったかと、その背景を説明していると、「君はまだホルバインの絵の具を使うのは三年早い。君のは絵ではなく記録だ。絵に君の話が付くと面白いが芸術性に欠ける」と言われてしまった。
私が「絵にはテーマや物語が必要だと思う」と言うと、「絵にテーマなどいらない。一つのリンゴ、一本の木を描いても無限のものがある。美の本質を見つけ出すのが画家の使命だ」と言われた。その時、北海道の羊蹄山の絵も持って行っていた。それについては「羊蹄山なら羊蹄山だけを描いたらよい。君はいろんなものを描き入れ過ぎている。スキーのジャンプ台のさびた鉄の格子など自分なら描かない」と言われた。
確かに、いらないかもしれないが、松尾芭蕉の「国破れて山河あり」である。かってこの町(倶知安)では鉄が採れ、鉱山の町として栄えた。そして国体も開催され、ジャンブ台が作られた。それが二十年たち札幌のスキー場やニセコのスキー場に取って代わられた。しかし羊蹄山は変わらない、ということを表したかったのだ、と私は言ったが認めてくれなかった。
そして水彩は濁らぬように雪は白く余白として残しておくか完全に乾くのを待って描くべきだ。濁っている」と注意してくれた。そして最後に「自分にとっての最大の問題は絵を入れる額だ。額は額屋で買うと二、三万の物が多いが、高いのは5、6万する。額より高い値を絵につけたいが、それでは高くなって買ってくれない。そもそも油絵を田舎の家にかけるのは無理だ。大きな絵は置くところが無い。油絵は重いからぶら下げるのも難しい。金具がいる。それには梁がいる」と嘆いていた。その辺になると、美の本質の追求ではないような気がした。
今回の三人展のリーダーで、Tさんの師匠とも言える人がOさんだ。私のいたPHP研究所は松下さんが設立して死ぬまで所長をしていたが、二代目の所長代行になった人がOさんで、この人も現役時代の私の仕事ぶりを評価してくれていた。
この人は当時150万部売れていたPHP誌の表紙絵も何回か描かれている。この表紙絵を永らく描いていた台湾人の画家が、社内で絵画教室を開いていて、0さんはその人の弟子で元経理のTさんと社外の人だが、もう一人生徒がいて、三人が三年に一度、京都の画廊で三人展をやっていた。私は、その展覧会に来てOさんに批評をしてもらえ、とTさんが言ったのだ。
私は二回三人展に行っているが、一回に百点ほど作品をコロの付いた台車に乗せて持って行って見てもらった。
三人で見てくれて批評はOさんだけがした。この時初めて横長の小豆島の絵も持って行っていた。
「私のテーマは無限の空間を表現することで、そこに風が吹いて雲が流れ水が輝いて音が聞こえるような絵が目標です」、と言ったら、それに対するアドバイスとしては「横長の場合は隣の色との色調の統一が大事だ。背景の山並の横線はなくしたほうがいいかもしれない。縦の線はリズムとして生きている」と言ってくれた。その上で全部見てくれたが、その見方が変わっていた。二三秒しか見ずに振り分けていく。「これはいい」「これはもう一つ」と。私はそんなに早く見てわかるのかと疑問に思ったが、たくさん持って行ったからだろうと思っていた。そこで「これはいい」と言われたのを「どこが良いのですか」と聞くと、それに対しては実に的確だった。私の持って行った小豆島の滝宮の池の絵は三人が良いと言ってくれたが、私はいい加減に書いた絵だと思っていたので、「早春のため緑が少ないと思う」と言うと、「押さえられたトーンの道の色と菜の花の色が調和している」と言ってくれた。
私が今、絵を習っている先生は私の絵を見て「色が濁っている」といつも言うんです、というと、「濁りにもいろんな種類があり、汚い濁りは見た人にも不快感を与えるのでやめたほうが良い。しかし服でも使って擦り切れたズボンは味のある汚れになる。お寺の古びた感じも濁りがあるが、それは美しい。それに対して、新しいのに無理に古くした汚い色がある。これは良くない濁りだ」と言ってくれた。そして寒霞渓頂上の二枚の絵は絶賛してくれた。下の左二枚の絵。右一枚は北海道の美瑛。
北海道富良野のヒマワリと馬鈴薯畑の絵も、トラックターの轍の跡は実際に現場を見たことのある人には良く分かる。そして遠くから見ると、この濁りも悪く無い。しかし知らない人には綺麗ではないかもしれないと言ってくれた。
三年後にもう一度三人展に行き、絵を見てもらう
そのときにTさんは、「日高本線・門別海岸を走るJR」の横書きは良いが、縦書きの絵は上下二つに絵が分かれてしまっている。こういう絵はだめだ」と言った。それに対しOさんは「上下の比率は悪くない。これは縦書きの方が五倍も十倍も良い。良い絵とうまい絵は違う」、と言ってくれた。
さらに、高槻の家の近くの成合の畑に桐の木が三本あり、それを私が感動して画いたものも三人に見せて私が裏話を語った。
家からわずか五分ほどで行けるこの場所は私の好きな散歩道で、そこに三本の桐の木があり、一本はすっきりしているが他の二本は何の木かなと思って描いていた。すると三輪(さんりん)自転車のおばあさんが後ろの荷台に草花をたくさん積んで通りかか った。その桐の木の前の畑がこのおばあさんの畑だったようだ。
私が絵を描いているのを喜んでシオン(ひめじおん)の花を一束くれた。そしてこの花を詠んだ万葉集の歌を教えてくれた。「待ちまちしシオンの花も咲き始めぬ。初花供う御先祖(みおや)に秋を‥」
後で調べてわかったが、どうも中大兄皇子と額大君の贈答歌らしい。そして桐の花の話になり、昔は女の子が生まれると二十年後にタンスを作るために桐の木を植えたものだ。偶々この家は三人とも娘であったので三本植えたが、後を継ぐ人がいないため、今は途絶えてしまったと話してくれた、そして自分はこの桐の紫色の大きな花を歌に詠んでいる、と言って「焔(ほ)むら立つ‥‥」までは良かったがその続きを忘れてしまったと残念がっていた、と説明した。
前に私が倶知安で朽ち果てたスキージャンプ台の後ろに羊蹄山がすっくとある姿を描いた際には、Tさんから「絵に物語性などいらない。物語をつけないと分からないようなのは芸術ではない」と言われたのを思い出していたら、Oさんは、「君は描くことで、そこにいる人との会話が生まれている、花をもらったり短歌を聞いたりしている。そうした地域に密着した会話が生まれていることがこの絵には生きている。
写真を見て描いたというのでは、こういう感じは出ない」とほめてくれた。
桐の花は大きな花で薄紫色だ。紫の花が聖火台の炎のように木のてっぺんに咲くと遠くから見れば確かにガスの炎のように見えたことだろう。このおばあさんも間もなく亡くなったようだ。‥‥それだけでなく、ここ数年、このあたりには第二名神の巨大なインターチェンジが出来て畑が全く無くなっている。私にとっては思い出の多い散歩道だ。
Tさんのいないところで、Oさんが「君は三年か五年で大変な成長をしたね。もう風景画ではT君を抜いたね」と言ってくれた
上左の写真は先に紹介したJR日高線の上に立っている門別灯台だ。そして右の絵はそこから近い戊辰戦争に敗れた伊達藩士が開拓に入った際に建てた神社の鳥居である。
この日は土砂降りの中で絵を描いている。灯台に雨宿りを頼んで入れてもらい、そこの中学生の息子さんの部屋から描こうとしたが、灯台が下に落ち込んだところにあるため、線路が何も見えない。外に出ると半分つぶれたビニールがけの鶏小屋が見えたのでその中で画いていた。そして少し雨がやんできたのでビニール傘を借りて自転車で移動し、神社の鳥居の後ろに小さな社があったので、そこから絵を描いていた。
スケッチブックは雨で凸凹になり、絵の具は雨に流れて大変だった。その凸凹になった画用紙の裏に鉛筆で汚い字で感想も書いていた。時々飛び出して下の海岸をのぞき込んで苦労して描いた。宿に帰ってスケッチブックのカバーの周りにガムテープを張って補強したと説明をすると、それも意味があってよいことだ、とOさんは言ってくれた。そこへトイレに行っていたTさんが戻ってきた。 Tさんの私に対する最後の言葉は「一言で言って君は楽しんで描いているということだ」であった。
他人の展覧会に自分の絵をたくさん持っていく人もいないだろうが、この三人展でTさんから一本とったことで絵を描く自信を持てたのは間違いない。