横須賀から三浦半島の観音崎と城ヶ島を経由して鎌倉へ
私は高校の途中から東京に住み、大学院まで東京にいた。しかし勉強好きで図書館と古本屋にしか行かず、住んでいた世田谷区の松陰神社の近辺しか知らない。しかもリタイア後は計画的な旅をせずヒッチハイクが多いため、どこをどうやつて行ったのかわからなくなる。ただし写真と絵に残しているので何とか思い出すような人間だ。ただし人との出会いはよく覚えている。人によってはラーメン屋の有った場所を覚えるのが得意な人もいるかもしれない。今回の振り出は横須賀である。
前日は東京で仕事をし、朝、京浜東北線に乗ったら車内吊りポスターで横須賀か鎌倉のあたりのアジサイ紹介の写真を見たのだろう。行ったことがない横須賀が港というイメージで浮かび上がったので降りた。道を歩いている人にどこかこの辺でアジサイのきれいなとこをご存じですかと聞いたら良く散歩をする人だったのだろう、横須賀図書館の中に築山の庭があってその裏の方のアジサイがちょうどきれいだと教えてくれた。まだ会館前でドアは閉まっていたが、庇の下で雨をよけて描いていた。一番に来たのが館長らしい人だった。気の毒がって少し早いが開けますから入って書いてくださいと言われた。入ると横須賀は新日本誕生の“まほろばの地”と書いたポスターが張られ、江戸末期の横須賀近辺の地図やペリーが来た時の絵などが掲げてあった。私は下田に来たと思っていたが、非公式に上陸したのは横須賀らしい。そういう情報をもとに勝海舟や福沢諭吉などが江戸から駆けつけて身に来たようだ。これからは出島を通しての蘭学の時代ではない太平洋から蒸気船で正面突破してくるアメリカの時代だと気付き始めるのである。やはり現地に来てよく知った人の話を聞くと歴史の見方が変わる。それはともかく、私の描いた絵を大変良いと言ってくれて、周辺にいた職員にも紹介してくれた。私も絵を描き始めたばかりの時で、自分ではアジサイの根っこが飛び出している風景に迫力を感じてくれるとは思わなかった。
そこで雨の中だが、アジサイはこの近くだとどこで咲いているでしょうと聞くと、観音崎の灯台あたりにあった気がするという人がいたので、そっちに向かう。
京急の浦賀(ここも横須賀で本当は浦賀に上陸したのだ)そこから歩きだしたが、どこに灯台があるかがわからない。七、八人のおばさんが集まってワイワイやっていた。私に何とかというホテルを知らないかと聞いてきた。リーダーは大阪弁のおばさんで近親感を感じた。私を旅をしながら絵を描いている山下清と間違えたのか、皆を連れてこれからホテルで食事をするつもりだが、一緒に来ないかと言ってくれた。私は灯台の絵を描きたいので一人で行くと断った。探してたどり着いたら二階建て事務所の引っ付いた小さな灯台たぬ゛ッタ、たまたまこの日は一般公開しているということで中で絵を描くことも認めてくれて迎えの山の上にあるのも灯台だと教えてくれた。ここで二時間ほど描いていると、先ほどのおばさん達もやってきた。
今回ウイキペディアで調べたら次のように書いてあった。日本最古 の洋式灯台として神奈川県横須賀市、三浦半島東端の観音崎に立っている。白色八角形の中型灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。慶応2年(1866)に江戸幕府は、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国と結んだ江戸条約で、船舶航行の安全のために灯台を建てる約束をしたので出来たと書かれていた。灯台の周りにはアジサイが植えてあったが、二階のベランダで描いていたので、一緒に画くことはできなかった。
ここまで来たら、もう一歩先まで行くのが、若い頃は営業で鳴らした私のやり方だ。観音崎の反対側に城ヶ島の有ることは気づいていた。北原白秋の「城ヶ島の雨」は私の大好きな歌である。「雨はふるふる城ヶ島の磯に‥‥♪」である。まさに雨の日に来たのは運が良かった。
これもウイキペディアから引かせてもらったが、次のように書かれていた。
島自体が地元の重要な観光資源である。観光地としての歴史は古く、鎌倉時代に源頼朝が度々来遊した頃に始まる。
明治に入って三崎~東京間に汽船が就航すると、城ヶ島は都会からの避暑客で賑わうようになり、遊ヶ崎に海水浴場が開設された。大正時代に北原白秋の『城ヶ島の雨』(後述)が発表されると、若い男女の憧れを集めるロマンの島として全国に名を知られるようになった。しかし、関東地震に伴う地盤隆起によって砂中の岩礁が砂浜に露出してしまい海水浴客は減少、その後に城ヶ島砲台(後述)が設置され、城ヶ島は要塞の時代を迎える。というわけで私のイメージとは違う面もあったが、家に帰って家内に絵を見せると、これは傑作だ、と叫んでいた。彼女は声楽が専門なので、絵の前にイメージが先行するのだろう。
ここまで来たら鎌倉のアジサイを絵に描かないと京都の朝廷に対抗し、日本初の民間武士の力で鎌倉幕府を開いた源頼朝公に申し訳がない。しかし、よくもまあ!海と山に囲まれた要塞のような狭い場所に政治の中心を置いたものだ。その辺りはブラタモリで紹介してもらいたいところだ(私が見損なった?)。立派なお寺はたくさんあるが、幕府の有った名残はほとんど残っていない。私は今回はアジサイを中心に見て回った。良かったのは要塞のようなところにある成就院と江の島の見える稲村ケ埼だ。鎌倉幕府がここに拠点を置いた気持ちがわかる気がした。地図の左端に辻村ケ埼があるが、ウイキペディアでは幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。 1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった、とかかれていた。歴史を知って、何故ここにと考えるのも良いことだ。