出会いはドラマだ、この人とも二度と会う事は無いだろう。ドラマに感謝したい。石垣空港から港(ホテルが多い場所)まではちゃんとバスが接続していて安い。その晩泊まった石垣のユースホステル・八州旅館は40年の歴史があるというから日本のユースの中では相当古い方だ。町の中の住宅地にあり、普通の家だ。玄関から入ろうとすると、ちょっと待って、と言って出てきたお婆さんが入り口は向こうだという。内庭をぐるっと回ってドアを開けると冬休みの学生が四人「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。
ヘルパーの女性は昨年12月に島に来て、そのままヘルパーをしているので、まだどこも見ていないという。給料はアルバイト程度だが、三食ついているし使うこともない、仕事は楽しいと言っていた。ところでリゾートアイランドを売り物にする石垣島はゴミには殊のほか厳しい。この宿でも細かく分別させている。島全体がゴミ一つない綺麗さを売り物にしている。ここにいる人全員に平久保(ひらくぼ)への行き方を聞いたが誰も知らない。そんな北の崎まで行く気はないらしい。バス会社に電話をすると、土日は走っていないが明日は月曜日なので7時に始発が出る。その次は11時半だと教えてくれた。
ユースの朝食は7時半と聞いて、「食べそこなう」とヘルパーに言うと、揚げパンのお菓子を渡しますといって、四つくれた。最初はユースホステルが町のなん中にあるのがおかしいと思ったが、ここからだとバスターミナルが近い。そして細長い島で南の方の港に近いところにバスターミナルがあって、全ての起点になっているらしい。ユースがここにあるのは正解だ。ユースでは夕食が出ないので、ターミナルまでの時間を調べるついでに弁当も買いにいく。7時の始発バスに乗って終点まで行き、終点から乗り継いで平久保の終点に着くのが8時40分である。そこから戻るためには次にくる1時10分のバスを待つしかないらしい。しかもそのあたりには店は何も無いらしい。ほかほか弁当を二つ買っておく。一つをユースで夕食代わりにお茶をもらって食べる。 ついでにヘルパーにペットボトルはないかと聞く。「何にするのか」というので「お茶を入れて持って行く」と言うと「ごみ箱に棄てたのものでもよければ洗う。これはオーナーが湯呑みがわりにさっき飲んだ後だから大丈夫」と言って洗ってくれた。
そこに熱いのを入れると変な匂いがしてへこんだ。これは駄目なので他をさがしてもらう。弁当を食べていると、ヘルパーが「二階は女性用だが、よければ二階で寝ませんか」と言ってくれる。好意であるとともに年寄りの私を外して若者同志で楽しくやりたいのだろう。まもなく返ってきた若者と、ヘルパーが乾杯と大きな声で酒盛りをはじめた。私は二階で絵を描くつもりだったが、スケッチブックを下げて降りていき、無理やり私の絵を見てもらった。 「お邪魔しました」と言って上にあがって絵をなぶるがなかなか寝れない。ヘルバーさんに目覚ましはないかというと、携帯を持っていないのか、それでセットすればよいと言われる。持ってはいるがそんな使い方は知らないのでセットをしてもらう。昨晩勧められて五日間2000円乗り放題のバスの切符はをすすめらたので買ったが。一番利用者の多い川平中心の切符は1000円で乗り放題だそうだ。石垣島の観光サービスは宮古島とはまったく違う。全島が地中海クラブのような雰囲気でハイビスカスがいたるところに植えられて年中花を咲かせている。
運転手によると来年は廃線だそうだ。バスから見ると黒毛和牛の牧場ばかりで、道はきれいに舗装され花が咲き、幼稚園も小学校も信じられないほど立派だ。石垣島は毎月50人60人と人口が増えているらしい。多い月は200人も増えたことが最近の町の公報でわかる。
しかし、この日の天気は低気圧の通過で最悪である。二日前まで石垣島も26度あって暑かったらしいが、雨が降りだすとさすがに一月なので寒くなってきた。こんな天気に絵を描くのか、と運転手もあきれ顔だ。
絵に画く良い場所が無いのかと聞いたが、毎日走っているとどこが良い景色かわからないらしい。そもそも平野、平久保牧場と言うのが一つの牧場ではなく、村営で牛を放しているだけで、そのあたり一体をさすらしく、人が住んでいないのである。しかたがないので灯台に行きたいと言うと、入り口に近い場所で降ろしてくれた。一緒の女性も、ここまで私と来たが、次の平野終点でこのバスにもう一度乗って折り返すと言っている。「それじゃ」と言って降りたが、風に飛ばされそうになる。これなら北海道一風の強い襟裳と同じだ。雨も降っている、バスはしばらく止って私の決断が変わるのを待っている感じだ。しかし飛行機代を払ってここまで来た以上、絵を描かぬわけにはいかない。バスはしばらく止って私の決断が変わるのを待っている感じだった。
しばらく風と闘いながら歩いていくとだんだん登りになり、ちょっといい風景だ。風が少し右手の山でさえぎられ、左手に海が見える場所に出た。ここで30分程風と戦いながら絵を描く。最初、海の方の牧草地に牛が何頭かいたが、風をさけてどこかに行ってしまった。画用紙が風で飛ばぬようにピンで止めていたが何度か風で叩き落された。
車で夫婦連れが通り、絵を描いていると知ってあきれ顔で通り過ぎた。いいいい加減のところでやめて灯台に向かう。ここにはトイレがあって屋根があると、馬喰に聞いていたが、まさしくあった。先程の夫婦は灯台の便所の掃除とメンテナンスを請け負っている人だ。 ここは映画のロケも時々行われるそうだ。この後誰も人が来ないといけないので記念に灯台に登っていくところをトイレ側から撮してもらう。灯台の上にあがって、そこから下に灯台を見下ろす構図で絵を画き始めた。岩と草の窪んだ所で姿勢を低くして描いているが吹き飛ばされそうだ。その内、三人組の女性が、風に飛ばされきゃーきゃー言っているのが下から聞こえてきた。めったに人がこないので、絵を画いているところを下から撮ってくれとカメラを渡す。ところが風で手が震えていて、ピンぼけだった。
下の灯台を描いたうえで横を見ると断崖がずっと続いていて、これもなかなか良い景色だ。そこを画いていると背広姿で身軽な男性が上がってきた。私がこんな場所で描いているのを見て熊が出たように驚いている。カメラ好きの人のようなので、上から私が何を書いているかがわかるように写してもらう。
“車ですか”と聞くと、レンタカーを借りているらしい。“どこまで行くのですか”と聞くと、川平だという。それなら同じだ、といことで乗せてもらうことにする。
運転席にあったスーツケースを後に置いてくれたが出張の途中の感じだ。何をしているのかと聞くと大学と高校で地理を教えているという。地理とは文化人類学的なものかときくとそんな学問的なものではないという。そして旅行も仕事のうちで、正月休みが無かったので今代わりの休みを取っているという。学校の名前は言いたがらなかったが、いろいろしゃべっていてJR系の鉄道学校ということが分かった。 バスガイなどの教育もしているという。したがって地理とは言っても、学問ではなく、その場所での人間の生き方を教えるのが中心らしい。大学は専任で高校は非常勤だと言っていた。そこで私は博労に昨日聞いたことを教えた。実は、ここには日本最古の牧場があるのだ、というと非常に興味を持ったらしい。
普通の人ならこんな場所を車でウロウロできないだろうが、仕事がらもあってカーナビで日本中どこでも運転するらしい。私は良い人に乗せてもらった。川平に着いて、そこで今晩泊る予定の安宿を探す。観光雑誌には1500円でドミトリー方式のヘブンリー・ブルーと書いてあった。
ドミトリーとはどういうものか観光に強いこの先生も知らないらしい。多分場所貸しという意味だろう。土産物屋で聞いて看板を目当てに行くと、白い髭を少し伸ばしバリ島の土人のような腰巻をし、サンダル姿で薪を運んでいる人がいた。 これがどうもドミトリーのオーナーらしい。ドミトリートとは何で、どこに泊めてくれるのか、と聞くと、隣のガレージをあけてくれた。かっこいい車が置いてある。その後ろにコンクリートの床に手作りの東南アジア風の蚊よけネットをした二段ベッドが三つ置いてある。 その奥が自炊の場所で電子レンジなど一応の道具も置いてあった。ドミトリーとは自炊のことらしい。1ヵ月38000円、90日以上は月2万円。朝食500円、手作りパンと手作りのジャムとトロピカルジュースと書いてある。この建物は一年かけて自分で全部作ったらしい。暖炉もあるが未完成だ。バストイレはぐるっと回って裏から入るようになっている。外には屋上に上がるための階段がある。家の中はアーリーアメリカンのポスターやCDジャケットのカバー写真で気にいったのを拡大してかざっている。音楽がオーナーの趣味だそうだ。
もとODN(JR系の通信プロバイダー)の仕事をしていて、JRのこともよく知っている。そして車のラリーの選手もしていたらしい。車庫に置いてあるのはスーパセブンといってイギリスのロータス社が作っている改造前・現在世界最高速の車だそうだ。これは800万だが、依然は一千万以上のものを持っていたという。全体がグラスファイバーでできていて、乗るのに乗り方がある。乗せてもらったが、アルミの取っ手以外はつかまずに、体をそっと滑り込ませるのがコツである。無茶苦茶軽く、こんな車で衝突したら一巻の終わりだろう。
自分がレースに出ていた時にあまりに早い車があるので聞いたら、それがスーパー・セブンだった。それを10年間思い続けて車を買う金がたまり、息子にマンションの頭金になる金はできたが、車とマンションどっちを買うのがよいかと聞くと、親父が思い続けていたんだから買えばいいだろうと言ってくれたので、その日のうちに契約したという。
この車のためのガレージを作ったわけで家の中心は二段ベッドでは無くて車である。いったい何を考えて生きているのかわからない人だが、私と同じで楽しんで生きているのは間違い無い。
自転車はないかと聞くと、相当くたびれたマウンテンバイクの六段変速のものを貸してくれた。勿論買物篭は付いていない。絵の具と画用紙をナイロン袋にいれて両腕を通して体の前にエプロンにようにして引っかけた。ここはかなりの高台なので川平湾に着くまでにはかなりのアップダウンがあった。川平湾は日本百景の一つで、たくさんの観光客がきている。マングローブが湾に茂り、そこに帆掛け舟のようなジャンクが浮かんでいる景色が有名だが、それに近い風景だった。
林を通して川平湾を描く。そうするとあまり南国の風景ではなくない。砂浜にりて湾の浜辺を二枚描く。一枚は珊瑚礁に白波が立っている景色で、もう一枚は振り向いて湾の奥のマングローブが茂る島々だ。ドミトリーに戻ってオーナーに夕食を頼むと得意のパスタを作ってくれた。色々な店で研究をしたというだけあっておいしい。大きな三日月形の食器にいっぱい食べると感心していた。お風呂は沖縄ではどこもシャワーだけだ。くたびれたし早く寝る。夜中に低気圧の関係で温度が下がる。薄い掛け布団一枚では寒くて目をさます。沖縄でも一月は涼しぃ。ガレージ(宿舎)を出ると前は草ぼうぼうの牧場だ。星空を見上げて小便をする。明日が楽しみだ。朝早くから抜け出して、と言っても7時半にならぬとまだ暗い。八時ごろからオーナーが自分で作った屋上喫茶コーナーに上がって川平湾を見下ろして絵を描く。
描き終わって二階のベランダから降りていってもオーナーはまだ寝ている。朝食を注文したはずなので、作ってくれと頼む。素泊まりと思っていたらしい。本来ドミトリーは食事は出ない。昨晩はレストランとして作てくれたのだ。さて、朝食用の食材がない、と言いながらも庭で飼っているウコッケイの卵とツナ缶を使ってオムレツを作ってくれる。朝食のパンも自分の食事用のものを出してくれた。コーヒーにはコーヒーミルクは使わない。コーヒーミルクのカップ入りは添加物の固まりだという。黒糖か普通の牛乳にしろとすすめてくれる。ジュースも庭の木の実を絞ったものだ。食後、川平湾のバス停まで運んでくれた。もう一度宮古島に飛行機で戻る。空港では一時間の時間待ちだったが、外に出してもらい沖縄の赤瓦を大量に使った空港ビルを描く。この建物は印象的だった。実に楽しい旅だった。