宮古島空港
宮古島に行くことを決めたのは、沖縄本島には何度も行っているが、宮古島には行ったことがなかったからだ。たまたまテレビで宮古島でのトライアスロンを紹介しているの見たせいでもある。3キロの競泳とフルマラソンと自転車で島を二周するらしい。この時の放送はアメリカから参加していたホイット親子が「風に乗って走る」といった題で紹介され ていた。 先天的な障害で寝たきりになっている20歳過ぎの息子をスーパーマンのような父親がゴムボートに乗った息子を紐をつけて泳いで引っ張り、マラソンは特殊な手押し車に載せた息子を押し、自転車は車椅子を自転車に取り付けて走りぬく。とても人間業とは思えなかった。 それにしてもテレビで見ていると実にきれいな風景が展開されていた。それを信じて今回はこの島だけに行こうと決めた。 しかし、後でわかったが、全島で一番良い景色のところをロケ場所にしてカメラをローアングルで空と海を徹底して見せたようだ。したがって実際に行ってみると、テレビで見た風景はなかったのだ。それと、行ってから教えられたが、トライアスロンに適していた理由はこの島の海岸線一周がちょうど百キロで高地が無いために高低差がないことだった。それと海岸線だけだと車の規制がしやすいと言える。それにしても島で一番高い場所が自衛隊の駐屯地ということから想像できるだろうが、絵にしにくい場所なのだ。
それにしても私はトライアスロンに出るために宮古島に来たわけではない。絵を描くために行くので、事前に宿泊予定先の宮古島ユースホステルのオーナーに、「絵になる所はあるか」「自転車を貸してくれるか」を確認している。「いくらでも絵を描くところはあるよ。ここはトライアスロンの島だから自転車でどこでもいけるよ」、と言われた。それなら、ということだった。 この島で私の唯一の知り合は、私が現役時代にやっていた経営塾に宮古島から熱心に来てくれていた人がいた。今は沖縄の県会議員もしている多良川酒造の砂川社長さんだ。この人には年末に電話をして、飛行場の迎えとユースホステルまでの運転をお願いしておいた。
飛行場で15年ぶりに会う。お互いに60歳ぐらいだが、あまり変わっていない。議員としても油が乗り切っている感じで若々しい。この人に車で半日案内をしてもらった。行った日が、たまたまトライアスロンではなくて百キロマラソンの日だった。100キロに並走して40キロと20キロのレースも同時にやる。昨日もあったらしい。昨日と今日の両方に出た人もいるという。本土とくらべ日の出が一時間遅いのでスタート時はまだ真っ暗なはずだ。最終が夜の七時、14時間以内に完走しないといけない。観光政策と考えるなら、本人の家族やサポーターが来る。選手は、数日前には入って調整をし、終っても一日は休息するだろうから、安上がりで効果的なイベントだと言える。
100キロマラソンのゴールはドイツ村で、多良川さんの家と会社がその近くにあるというので、とりあえずそこに向かう。ドイツ村ができたいわれは、今から130年ほど前に、ドイツ船が島の沖で遭難し、島民達は自分たちが食うや食わずの貧しい生活をしていた時だが3ヵ月ほど良く面倒を見たのをドイツ人が感謝し、近年になってこのドイツ村づくりに協力したらしい。原寸大のお城と迎賓館がある。これがプロ野球のキャンプ地として使われている間は活用されるらしい。
そもそも宮古島には産業が何もないからので沖縄本島などに出て商売で成功する人が多いらしい。砂川さんもその一人だ。多良川酒造では七十年前に作った泡盛が一番の値打ち物だそうだが、珊瑚礁(島全体が珊瑚礁)の地面を掘って洞窟を作り、そこに保管する。すると湿度や温度が安定して良いらしい。しかも洞窟の周りが全て珊瑚なので支柱を立てる必要もない。実に安上がりな工法でできてる。
洞窟の上には山羊がたくさん飼われていた。これも沖縄らしい風景だが、肝心の洞窟の中の電気がつかない。中に入ったが何も見えない。灯りを極度に嫌う泡盛だからそれでいいらしい。泡盛の起源は山田長勝のころに遡るようだ。当時の倭寇の城跡も近くにあり、そのあたりは史蹟にも指定されているのでやたらに掘ってはいけないらしい。
ドイツ村から20キロほど先に行くと、日本で一番長い橋・来間大橋(くるまおおはし)がかかっている。人も車も通らないところに、こんなに巨大な橋があるのは、そのうち日本の七不思議に入るかもしれない。渡ったところに「来間島憲法」という看板があった。外部から集団で移住してきた人たちが、自治組織を作っていて、環境を守るため協力してほしいと書いてあった。地元の人との交流がないらしい。しかしここを維持するのは大変なことだ。この橋の上からの景色はなかなかのものだ。中には色んな施設もあるようだが、有料と聞いたので入るのはやめて引き返す。かなり行くと、この島唯一とも言える観光スボットの西平安名崎(にしへんなざき)という岬がある。ここの景色は沖縄紹介のパンフつレットなら、まずどれにも載っている。しかし絵を描くポイントは岬に入る最初の高台(岩の出っ張り)一箇所しかないようだ。その他は何処までも同じ高さの低い城壁の上を行く感じだ。海と空を見るには効果的だが絵にすると一枚しか描けず、変化が無さすぎる。しかしここが一番景色が良いところなので明日は絵を描きに来ようかと思う。そこで足の便を先端の灯台で入場券を売っている女性に聞くと、バスは走っていないのでタクシーしかないと言う。
せっかく来たので一枚だけ絵を描いた。
砂川さんには半日走ってもらったが、宮古島では車がないと絵が描けないことも分かった。どこに行くにも片道二~三千円は要る。絵を描き終わって帰る時にはまたタクシーを呼ばないといけない。ユースのある平良港から平安名岬までだと片道4000円はいると言われた。本土から誕生日特別料金で冬場とあって一万円のフライトで来ても、これでは意味が無い。 この日泊まる予定のユースに戻ってみたらまだ誰も出てこない。家に入って電話をするが出てこない。砂川さんが隣の建物に入ってようやく見つけてくれた。オーナーはこのあたりに何件も家や建物を持っていてユースは余技でやっているらしい。少々頭に来たので、近くには絵を描く所が無いし、サイクリング自転車では行ける距離には何も無い、と文句を言うと、去年の台風で景色がすっかり変わってしまったのだと言う。そんなオーバーな、と思ったが確かに棕櫚が根を上にあげてころがっている場所があった。電信柱も100本以上倒れたという。食事も用意できないから素泊まりでよいかと言う。“泊まる気を無くした”というと、隣の伊良部島に行けばよいと言って、オーシャンホテル・サシバ(海辺や湖にいる鷹)という宿舎に電話を入れてくれた。
“これから行くから港に着いたら迎えに来てくれ”とまで言ってくれた。よく知っている宿のようだ。宮古島泊りをキャンセルをするのは悪かったが、その方がユースのオーナーも喜んでいるようだ。友人や娘さんと別のところで懇談する予定だったようだ。
<伊良部島>
伊良部島はフェリーなら一時間かかるるが高速艇だと20分で行ける。高速艇を待つ間に、港で弁当とパンを買う。オスカー・ワイルドの幸福な「王子」の一場面に貧乏画家の青年が食べるものもなくゴロ寝をして目をさますと燕が宝石を届けてくれていた、という場面があるが、私は「幸福な王子ではなく」「幸福なオジイ」である。パンをかじって絵を画こう。ワイルドのもう一つ有名な童話に「意地悪な巨人」というのがある。これは私が一番好きな話で、意地悪な巨人の家は年中冬だったが、一人の子供が庭に入り巨人の心を変えた。すると庭が冬景色から春の庭になると言うものだ。
私自身がこの童話の夢をたまに見るほどで、、私も「意地悪なオジン」にならぬように注意が必要だ。それはともかく、島に渡って何も食べるものが無いという最悪の状態には備えておいた。
せっかく案内してくれた砂川さんには悪いがあまりにも観光のためのインフラが悪いと思う。宮古島も観光に力を入れた時期があったようだ。しかし、観光資源に乏しいので諦めてスポーツ一本(プロ野球のキャンプ)にしたらしい。どこか他に面白い場所はないのかと砂川さんに聞くと、この島から一時間半ほど船で行った場所に、この島より大きくて年に一度、四時間だけ浮かび上がる島があると言っていた。いつもは海面下2メートルほどのところにある珊瑚礁の島らしい。帰りの飛行機で、注意して見ているとそれらしい島陰が広がっていた。
砂川さんと別れて高速艇に乗った頃からスコールのような雨が降り出した。港に着くと雨風が叩き付けるように降っており、迎えにきた50台以上の車が、ごったがえしている。 その人たちは、あっという間にどこかに消え、その後でようやく迎えの車が分かった。
離島でよほど小さな島(住民は約百人)かと思っていたが港の近くには立派な建物が並んでいてコンビ二も二つほど目に入る。驚く程都会的なところだ。雨が降り真っ暗な中を細い海峡添いに車が走る。この島は小豆島と同様に二つの島(伊良部島と下地島)で出来ていて、間にあるのは川ではなくて海峡だそうだ。六本の橋でつないでいる。サシバという宿は海峡を越えた下地島という別の島にある。10分程走ると私の住む高槻の団地と変わらないような建物が並んでいた。A棟からC棟まであり四階建だ。ここが宿舎だといわれて驚く。後で知ったが、この島には日本唯一の飛行機練習学校があり、トンビの一種であるサシバの名前も練習生が長期滞在するためのワンルームマンションの名前である。最近は飛行機会社も経営難でパイロットの需要が減り、空いてるときは、町が宿泊施設として借りて使っているらしい。フロントには名古屋からきた若い女性の二人連れがいて私を迎えに来たフロントの女性が帰るのを待っていた。細い人と太った人で、細い方が沖縄出身でこの島にも一度来たことがあるらしい。明日はレンタカーを借りて回ると言っている。私はレンタカーを借りるつもりはない。小さな島だし絵を描く間は停めておくから車を借りるのはもったいない。
そのあと京都から来ている中年女性の二人連れとも話をする。驚くほど合理的な考えをもっており、フロントの女性も「たくましい人たちです」と感心していた。京都から関西空港にいくには京阪電車で京橋まで行きJRに乗るのがよい、伊丹空港なら阪急で行って蛍ケ池から歩くのがよい、今回もマイレージを使って来たからタダだ、と言っている。話を聞いていると、旅行の内容よりも安く上げることに精力の大半を使っているようだ。
私もケチな人間だが、「成果×お金÷時間」だ。今回は誕生日特割できたが三日も必要がないと分かったので一日早く帰えろうと思ったが、飛行機会社では決済が終わっており一切の変更はできませんと言われた。そのことを言うと、「そこは交渉力だ」と言われてしまった。 しかしそこまでやると旅の楽しさが損なわれる。私には金は無いが絵を画くという目的がある。これが一番大事だ。迎えに来てくれたフロントのオバさんに明日朝早くから自転車で走りまわりたいと言うと、まっサラの自転車(町のだろう)を用意してくれた。
明日雨で、もし乗らないなら、そのままにしてくれてよいからとも言ってくれる。それにしても、ここに二日間いても仕方がないと思いJALに石垣島に行く便の申し込みはできるかと聞くと、明日の石垣行きなら安い特割がある、但し今晩中の申し込みだと言われる。しかし帰りの宮古-大阪を石垣-大阪への変更はできないらしい。そもそも、誕生日特割は21日前までだと言われてしまう。しょうがないのでとにかく石垣島への便を申し込む。帰りはどうするか、石垣島から船で帰る方法はないのかとフロントの人に聞くと、あるが、それは新聞を見ないと分からないと言われる。フェリー会社が荷物輸送のある時だけ新聞で一般客の乗船を呼びかけをしているらしい。これでは用事のある人は飛行機しかないことになる。お金が無くて用事のある人はどうするのだろうと余計な心配をする。
今日は早く寝て明日は早くから絵を描こう。飛行機代を使って遠くから来て絵はまだ画きかけが一枚だ。これは費用対効果の計算上は許されないことだ。
宿舎はワンルームマンションで快適だった。六畳の畳み部屋とトイレ・シャワー室と板の間キッチンがある。完全に長期滞在者用だ。レストランは別棟でフロントと一緒にある。料金は素泊まり2600円でユースよりも安い。宿泊施設以外の建物はメキシコか南イタリア風でカラフルだ。今は雨も止み春の宵のようにさわやかでほかほかしている。
自転車があるので、このまま走り回りたい気分だ。しかし自転車にランプが付いていない。 街灯が周りに全く無いので月明かりでは走れない。明日を楽しみに早く寝ることにする。それにしても暑い。ガラスをあけて網戸で寝る。
あさ早く起きたが、7時半が夜明けのためまだ暗い。時間前にレストランに行くと一人だけまずそうに食事をしている人がいる。「どうぞ」と手招いてくれたので前に座って話をする。ここのレストランのシェフらしい。
東京から七年前に転勤できたが、正月前後は毎年こんな天気で初日の出は見たことがない、と言う。本土に低気圧が近付くと沖縄では必ず不安定な天気になるらしい。絵が好きで自分も描いているそうだ。 本などを見ながら人物を書くらしい。なるほど私よりも知識はもっている。それにしても悲しそうな雰囲気を持った人である。この人の話では食堂は観光客も利用できるが、教官の宿舎もあるようで日本庭園風の南洋庭園あった。これは絵になる。遠くに管制塔も見える.
食事後、フロントの女性が勧めてくれた「渡口の浜(とぐちのはま)」に向かう。周りがサトウキビ畑だ。「ザワワ、ザワワ、ザワワ広いサトウキビ畑にザワワ、ザワワ、ザワワ」とう歌が自然に口を突いて出てくる。自転車で10分少しで海峡か川かわからぬ場所に「渡口の浜」があった。きれいな浜にピンクのグラスファイバーボートが二つ浮かんでいる。 これは観光用に風景を作るため置かれてるのだろう。これが無かったら、青い海と青い空だけでは写真にもならない。絵を描く場合も、青の補色の赤系統の色が全く無いなら落ち着いいた絵にならない。犬の散歩に来ている人がいた。犬がかわいかったので一緒に写真を撮った。
「何処か絵になる場所がありますか」と聞くと、「それは『通り池』しかない」と言う。あまりピンと来る名前ではなかったが、早速絵の道具を片付けて婦人用自転車の前籠に積み、教えられた方向に向かって走る。宮古島発石垣島行きが五時二十分発でこの飛行機に乗るには、この島を三時には出ないといけない。
その間に食事もしないといけないし、シェフお奨めのフェリー乗り場の先にある絶壁も描きたい。それなら午前中が勝負だ。まっサラのスケッチブックを一冊描きつぶす予定で持ってきたので、腰を落ち着けてなどいられない。
通り池の表示板があったので入っていくと、どうも違うらしい。観光バス用に作られた一町ほど手前の表示を見て曲がってしまったらしい。自転車で行ける所まで行く。自転車を置いて先に進むが珊瑚が靴に刺さる感じで歩けない。そこで浜の方に下りて、はるかむこうの岬の上にある亭(ちん)らしきものを描く。後で分かったが、その亭の下が海と繋がった「通り池」だった。一枚仕上げて自転車にまたがり先に進むと、バスが何台もとまっている場所があった。これが通り池なのだろう。珊瑚礁の上に長い板を敷いた道が延々と出来ている。私が買物籠に絵の道具を入れた婦人自転車を押して追い越していくと、観光客は皆近くにスーパーでもあるのかと驚いている。
「通り池」という名の起こりは二つの池がつながっていて、それが海とも直径50センチぐらいの穴で繋がり、沖に止めた舟からスキューバーがもぐって奥の池までいけるからだ。
その他にも小さな「井戸」と呼ばれる池があり、ここの水はカルシューム分の多い珊瑚礁でろ過されていて「六甲の水と」同じ成分だとバスガイドがマイクを使って話していた。
雨が降ってきたので、通り池の亭(ちん)で雨を避けて絵を描いていると昨日の若い二人ずれの女性がやってきた。先に描いた「渡口の浜」の絵を見せると、「素晴らしい」と言ってくれる。この「通り池」は非常に変わった風景ではあるが、高低差なく横に180度広がっていて絵には描きにくい場所だ。なんとか絵に納める。そのあと、雨が降っていたが、飛行機練習場をぐるっと回る。
サシバホテルに戻り、レストランで食事をする。ソウキソバとライスにした。これが一番安くて腹にたまる。
沖縄の人でそばを食べる人はご飯は食べない、と食堂の人は言うが、焼きそばライスを食べている私のような人間にはそばだけでは頼りない。漬物は自由に取ってくれということだ。自転車をフロントに返して港まで送ってほしい、と頼む。朝、シェフから聞いたフェリー乗り場の先の絶壁を画きたかったのでそこに行ってもらう。支配人のような人が乗用車で送送ってくれた。走りながら、この島にはいろんな景色があるんですよ。たとえばあそこだ、というので、そこに回ってもらう。両側にちょっと岬が突出していいる崖の上で、左の下に井戸があるり、ここを「沖サバ井戸」というらしい。昔の村人は坂道を延々と上がったこの断崖の上に来て、そこから苦労して海岸に降り下で沸き出ている水を汲んだという。通り池の井戸と同じようにアルカリ水なのだろう。ここからだと港までは下りで歩いて10分ほどで行けると聞いたので降ろしてもらい左右の崖を別々に描く。
その後、高速艇に乗って宮古の平良港に戻る。港から空港にはバスは出ていない。タクシーで空港までいくと1500円ほどかかるが皆タクシーを利用しているらしい。しかし、乗る飛行機が17時20分なので十分時間がある。私は飛行場で時間待ちをするタイプの人間ではない。そこに行けは、そこにしかない風景や生活を探す人間だ。港から町まで歩いて中央の商店街をのぞく。古い宮古島の商店街は俗化しておらず東南亜細亜に来た感じでなかなか味わいがある。
<バクローのおじさんと二人で小型機に乗る>
石垣島行きの小型飛行機に乗ると乗客は私ともう一人しかいない。特別割引料金になっている理由がわかった。客がいないのだ。相乗り客はごっつい人で右斜め後ろに座っており、この飛行機の常連さんのようだ。変な大阪弁でスチュワーデスをからかっている。大阪弁なので“大阪の人ですか”
と聞くと、“石垣の大阪弁”だと言う。何をしているのかと聞くと、“あんたにはわからんだろうが、馬喰(ばくろう)だ”と言う。
こういう職業が昔はあったとは聞いていたが、牛や馬を石垣から内地に持っていき、内地の牛や馬の肉を買ってくるらしい。一番多く行くのが大阪の松原だ、というのでそれなら私の中学時代に住んでいたところだ、ということで親しくなった。
あのあたりにはちょっと怖いのが居た、というと、恐いのは自分だけだと言われた。牛で一番は松本で、来週は秋田に買い付けにいくと言う。この人の話では石垣島には日本で一番古い牧場があるらしい。 平野牧場と平久保牧場と言い、平久保牧場には350年の歴史があるという。見る価値があるし、ここは絵になるから是非行けと言う。低気圧が朝鮮から張りだしていて、明日は雨というのが天気予報である。雨が振っても絵をかける場所があるか、と聞くと、公衆トイレがあり、そこには屋根があるという。しかしそこには一日二便しかバスが出てないので朝一番で行け、そしたら川平(カビラ)という一番有名な景勝地にも行ける、と教えてくれた。この人は昭和34年に中卒で集団就職で大阪に出て、万博会場造りの仕事をしたらしい。当時10代だったがブルドーザーを運転し、月給6万円ほどももらったらしい。 私は44年に大学院を出て月給4万円だから大した高給取りだ。北の新地では良くもてたという。別れるときにわしは花崎という名だ、あんたは、ということでまたどこかで会おうと言って別れた。